昭和45年06月17日 朝の御理解



 御神訓 一、「体をつくれ、何事も体がもとなり。」

 確かに何を致しますに致しましても、矢張り体があっての事で御座います。体が健康で、おかげを頂き恵まれておらなければ、何をする事もできません。何と言うても体をつくれ、体が何事も体がもとなり。体をつくれとは是は体を作るための精進、努力が必要であるわけですよね。本当に自分で工夫しなければいけません。食べ物にもまたは適当な運動にも、ま様々な努力というかね、がいるだろうとこう思います。
 是やっぱり努力をいたしますと、私共の子供達がみんな、ご承知の様に体が小さいとにかく背が低いから子供ながらに気になるらしいんですよ。ですから光昭もそうでしたが、特にあの栄四郎はあんなに小さいですからね、もう背が大きくなる為のその運動をする。背が大きくなるという食べ物は、あぁその自分でも工夫して食べると言った様な、その努力という程しの事でもなかろうけれども、やっぱり努力をするわけですね。
 もうパンを食べると背がふとなるちてから、誰からか教えられてからもうパンがあるともうパン食だけで。学校でも矢張り何ですかバスケットボールですか、バレーかなんかそういう背が大きくなるその運動スポーツを選んでおるようです。所が最近非常に背が大きくなりました。矢張りそれだけの努力をしておるからですね。光昭なんかもそうでした。学校で一番小さいんでしたけど、矢張りあの人はバレーでしたでしょうか。
 バレー部に入って所謂体を鍛える、それも矢張り背が大きくなる事の為のスポーツを心掛けると。矢張り心掛ける事によって確かに違うですね。横にこう張りたい人は、柔道なんかをやりますと、横にこう張ってきますしね。いかにその体をつくれという事は、あの自分で工夫し、努力せよという事だと思うんですよね。その前にね体の丈夫を願えというところがありますね、その『体をつくれ何ごとも体がもとなり』というその一つ前に、『体の丈夫を願え』。
 だから「願う」と「つくる」とこの二つが伴うていかなければなりません、ね。どうぞ体の丈夫を神様にお願いをする、ね。同時にそらならお願いしとるからそれで良いという事ではない。お願いしたら矢張り自分で工夫をして、背が太りたいなら、背が太る運動をするとか、ね、横に張りたいならば横にはるような、横に大きくなる様な運動をするとか。願っただけではいけない。そのやはり精進努力こそ、私はおかげを頂くのだ。
 いわゆるそこに願わして貰うという事ですね『体の丈夫を願え』、ね、次は『体をつくれ、何事も体がもとなり』、その体がもとなのだからと。そこでその体が元でありますから、ね、ですからそのなら体の元の元とこういう事になると、どういう事になるでしょうか。健全な心に、健全な肉体が宿ると言われております。してみるとそういう形の上での努力とか、願うとかという事もありますけれども、そのもう一つ向うには健全な心という事が願われるわけですね。
 健康のおかげを頂くなら、矢張り心が健康でなからなければ、心が健全でなからなければならない。是は言わば元の元の事なのです、ね。健全な心に健全な肉体が宿るのである。そこで今日はね、私は『体をつくれ何事も体がもとなり』というその体をね、私共の信心の体信心の体をつくると言う事、ね。いわゆる健全な信心健全な心、まぁそう言う様な事を聞いて頂きたいと思います。信心にも色々ありますからね。
 ただそれはお道の信心の中にもあります。「この方の道は、祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かる」と教えておられますけれども、矢張りその話は聞かずにただ一生懸命拝むという事だけで、いわゆるおかげを受けておる人もやっぱあります。またそういう事が特徴の教会もございます。あちらの先生はもう祈念力が強い、御祈念の力が強い。けれどもあちらではお話しがない、御理解がないというような教会。
 ならここではまぁどっちかって言うと、まぁお話しがほとんどでございますよね。いわゆる話を聞いて助かる方の、がそれでもそれにはもう絶対拝まなければおられない、祈らなければおられないというのが信心です。やはり拝む信心の私は姿勢というものはね、この拝むという事からやっぱ始まるんだと思うんです、ね。拝んで受けるという、ね。頼む、すがると言うても矢張り合掌するという、その拝むと言う所から。
 ただそれをですお話しを頂いて心が開けてくる、ね。言うならばですね、体をつくる例えば、その、なら為には栄養学というものがありますよね。どういう食べ物を食べて、どういう運動をしたら良いと言う様にその、栄養学がその御座います様に、私はお話とはね、いわゆる心の栄養だと思いますね。お道の信心で言う話を聞いて助かるというのは、心に栄養が与えられる。やはりそれを心の糧とも申します。ね、
 ですから心がいやがうえにも健全になる。それはどうでしょう拝む事だけでは健全にはなりませんですね。ね、矢張りそこでですまぁ拝む事が運動なら、お話しを聞く事は栄養をとると言った様な事になる様ですね。だからその二つがね、矢張り伴うていかなきゃならない。もう話を聞いときゃ御祈念せんでもええ、拝まんでもええという事はない、ね。一生懸命お話しを頂いて、成程、成程と合点をするだけではない。
 それが行の上にも現されるという事と同時に、矢張り一心不乱な御祈念拝むという事はまた大事であります。信心の体信心のまぁ五体ですね。まぁどの様な風に頑丈に健全そのものになっていくかと、またならなければならないかという事ですね。不動の信念というね不動の信念。是ちょっとまぁ余談に成ります様ですけれども、先日の日曜の特別奉修委員の方達に対する御理解の中にですね。
 ここの子供たちの信心というか、が別にあぁしなければならない、こうしなければならないと言う訳でもないのに、何とはなしにそのまぁ信心の年頃とでも申しますかね、年頃になりますと、それぞれにやはり信心がでけている。例えばまぁ一つの形を申しますと、ここの若先生が、場合なんかは、これは私のいうなら痒いところに手が届くと言った様な感じの信心ではないですね。もうどっちかち言うなら、私が右を願っとりゃ、左の方をやっていくといったような感じです。
 だから時には目にあまるような事もあります。けれどもいつの場合も、私の思う意表外にできておる、私の思う以上の事をさっさとこう、私の信心も、まぁいうなら手伝うてくれるというか、また自分自身の信心でもあるわけですけど。すとならまぁ光昭になりますとこれとは全然反対です、同じ兄弟ですけれど。もうとにかく親先生が言われる通りの事をしようと、親先生がこうする事が喜ぶという事を、が分かったらそうさして頂こうというような生き方なんですね。
 ですからまぁ言うならまぁ人間的に言うとです、まぁ頼もしい限りと思います、ね。別に他に何もとりえがあるわけじゃないですけども、信心は何か知らんそう言う様な所に、とにかく親の歩いた道を本気で歩こうと言う様な感じです。なら勝彦だって私昨日ちょっと事務所いきましたら、あの人が学院に行っております時に、あちらでお話しをいたしとる学院で。それをテープにとってあったのが、その時直美会の方達が、肝いって下さってから、それが小さい小冊子になってパンフレットのような。
 それがそこにありますから、改めて見せて頂いたら、やっぱり一から十までとにかく、親先生が歩かれた道を本気で歩こうと、親先生が教えられた事が、それがよし地獄道に繋がっておっても、その道を歩くといったような事を発表いたしております。改めてみて、改めて、なら生き方は違うようであるけれども。やっぱ根本精神は同じ。まぁ言うなら、私の手の平の中にあるいうなら、ね、
 お釈迦様の手の中にある、あの孫悟空のようなものだとこう思うんです。やっぱり私の祈り、願いという物を受けて立たして頂いておるという感じ、けれどもその生き方はちょっと違う。それがですね、例えば若先生達の場合なんかはあの、若先生に対するところの信頼というかね、もう非常に強いものですね。それこそいつも親先生が亡くなられらっしゃったっちゃ、もう私だん驚かんというぐらいな。
 位に若先生に対する信頼心を持っとるのです。まぁ有り難い事だとこう思います。だから、そう言う様なものがですね、いつの間にいつでけただろうかと、こう言う事です、ね。そうしましたらね、私があの特別奉修委員の方たちの御祈念をさして頂く、御神前に出らせて頂いたら頂く事がであれは、勝彦がまだ小学校の時だったと思いますけれども、あの足の届かん大きな自転車に乗ってですね。
 椛目の上を上椛目ていいますが上の椛目にあの、お不動様がお祭して御座いますよね椛目の上に。お不動様のあのずうっとこうカーブになっとう曲がり角の、そこに溝があって、溝の向うには石がガガッとこうしてある。それをそのあんまり急に踏んできて曲がりきらずにですね、その小川の中に飛び込んで、向うの石垣に頭を持って行っておる。是でこうもうそれこそもう大変なこう傷をして、自分でも分からん様になった。
 それはあんまり大きな音がしたからというので、お不動さんのあのおばあさんがですね、出てみえて、「ほうらもう大事できとる」ち言うちからその、娘さん達を呼んで自転車を引き上げ、落ちこんどるとをもう、てんでもう血がどんどん頭ですから出ますし、そのまま連れてきて、あの頂いた事があるんです。「もう早う医者にいって、早うみなさい」と言うて、「見てもらいなさい」と言うてですね。
 連れてきて見えられた事があります。その時の場面を頂くんですよね。だけその時にも、けども私はその後にはぁこういう事もあったんだなぁと思ったんですけれども。是は例えばあの勝彦が目にこんな長い竹が、ね、遊び子供たちの遊び投げたのが目に刺さった。それを裏の篠原さんが、こう引き抜きなさったもんですから、この眼球が外にバッと出てしまったんです。ひっくり返ってしまった、ね。
 もうそう言う様な時でもですね、私はもう言うならもう微動だも致しませんでしたね。もう、ひって泣いて抱いてきて、あのここに連れてきて、「よしお願いするぞ」と、「すぐ痛みが止まるようにお願いするぞ」と言うてですね。是はその時もその怪我の時もでしたがもう本当に、あのすぐ眠るぐらいにおかげを頂いて、それでべつに医者へ行って見てもろうた訳でもなからなければ。
 眼科のお医者さんに行って目を押し込んで貰った事でもない。もう夕方には目が中に納まり、そうですね一週間もかかりましたでしょうか。もうそれこそ血をもみこんだ様に大変な傷でしたけれども、もうそれこそもうあの当時の事を思うと、皆がとても、只たまがるばかりでした。こういう怪我をこのままほうからかして、ね。そういう例えばなら是は若先生だけの事ですが、あの破傷風になった時だってそうでしょうが。
 あの時は随分掛りましたけども。私はあの時、部屋を覗いてもみませんでした。あのはいはいしながら御祈念をしたあの時分です、ね。そういう事がですね、そういう事が言わず語らずの中にね、ちゃんと教えられてあるという事です、子供達、ね。さぁ子供が少しばかり、自転車から落ちて怪我をしたというお届けがあったんです、内田さんからその日ちょうど、ね。そしたらさぁ医者に連れていってレントゲンに行かせる。
 そりゃぁ私レントゲンにかかるとか医者にかかるとかがいけないと言うのじゃないですよ、ね。けれどもそう言う事で例えば信心の、信心を育てると言ったって本当のものは育たないという事です。神様を信じて疑わない生き方でですね、矢張り子供達は育てられてあるどの子供でも。だから愈々の時に確信を持った、私はお取次ぎが出来ると思うんですよ、ね。それはまぁ今日まではまあ、見事におかげを受けてきております。
 そういう、だからその、傷が治ったというおかげだけでなくて、傷が治った時には、信心とは、神様とは大変なものだなという事をです、子供心にちゃんと教えてあるわけです、ね。だからその事を頂くんですよそん時。そしてははぁあの時に不動様の角で、あの怪我をした所の事を頂いたのが、あの不動の信念という事をヒント与えて下さるつもりじゃったなぁと、後で分かり、思いました。
 不動様の拝みなさるおばあさんが助けて来て下さったんですからね。と言う様にです、私はその、体を作ると言う事がですね、自分の心に確固たる、いわゆる頑丈な体であります、でなからなければなりませんように、頑丈頑健そのものの心、いうならばどの様な事の場合でも微動だもしない心、神様を信じて疑わない心。そういう心がです育っていくという事なんです。私は体をつくれという事はそういう事だと思うです、ね。
 体のもとは矢張り心健全な心に健全な体が宿るのですから、その健全な心を作ると言う事は、いうなら不動の信念を誓う事だとこう思います。どんな場合でも揺るがない、迷わないいつも一心と定めてある、ね。そういう心が育つと言う所にです、ね、健全な言わば体も約束されるわけであります。ね、信心の体とはそういう事だと。そこでですねそれをまぁ具体的にもう少しお話しいたしますとね。
 昨日は善導寺の原さんのところで、一年に一回の宅祭謝恩祭が御座いました。本当に有難い、有難いお祭でした。もう前々からずっとお願いしてありましたから、丁度御承知のように前、前々日ああいう雨嵐で御座いましたしね。だから前々その昨日の前の日ですね。前日は準備やらでまぁ何日から、お掃除一つさして頂くでも、天気のおかげを頂かなければならんからお願いしておりましたら。
 ご準備の日もお天気でありましたし、昨日またあの様に良いお天気でございました。もう、暑くもなからな寒うもない、いつも風がさらさらとして、御用を頂く方達も大変、まぁ楽だったと、と言う様なですねその中に、お祭が奉仕されました。もう本当に今日おかげを頂いて、けっこうなお天気のおかげを頂いてという、その中にお祭が奉仕されたわけです。でそれで私はその事を、まぁいうならテーマにお話しさして頂いたわけですけれどもね。これはもう十年も前だったでしょうか。
 私が大変かんぱつつが続いた時がありました。もう毎日毎日いつ雨が降るじゃろうかと世間では雨乞いなんかがあると言った様な時でした。所がもうその日にもう大変な夕立がありましてね。それこそじっくりあの地区だけお湿りがあった事がありました。その後に私が、親教会に参拝のおかげを頂いた。丁度親先生は御神前で御祈念をなさっておられた。一緒に御祈念をして、先生が御結界に下がられたら。」
 今日はね大坪さん、私はこの有難いお湿りの事を神様に本当に心からお礼を申さして頂いておったら、『成程お湿りも有難い、けれどもね、お日照りも又有難いのぞ』というお知らせを頂いたと言うて、御理解くださったそりゃぁもう、まぁ何十日ぶりじゃったでしょうかね、そういう夕立ではあるけれども、じっくりお湿りを頂いた事が、はぁ有り難いとこう思うて御礼を申しておられたらです。
 お湿りだけが有り難いのではない、そのお日照り続きの、そのお日照りそのものも、また有り難いのぞとこういう事。昨日あの様なお天気のおかげを頂いたが、よしそれが雨嵐であったって、それでも矢張り有り難いのだと言う事。金光様の御信心のね、願いの焦点というか、おかげを受けなければならない、どうでもここだけは自分のものにしとかなければならないという事はですね。
 降っても有り難、照っても有り難いんだと分からせて頂く所に極楽があります。仏教で言ういわゆる極楽。いわゆる所謂最高のおかげの世界があるわけです。自分の思う様になった事だけが有り難いのではなくて、思いの反対になっても深い御神意のある事であるから、それもやはりおかげであると、分からして頂く時に降っても有り難いなら、また照っても有り難いというものが生まれてくる。
 まぁそのようなお話しを、まぁ中心にお話しさして頂いたんですけどね。ね、だから健全な心というのはです、ね、自分の都合の良か時だけ有り難いなぁ、是だったら誰だって有り難いです。けれども自分の思いの反対になった時だってです、有り難いなぁと分からして頂く様な心は健全な答え、いわゆる健全な信心の五体から、よりしか生まれては来ない、ね。本当の健康的な信心をしておらなければ、そこは分からん。
 拝む事で一生懸命拝む、自分の思いが貫徹する、願いが成就する事だけがですね、おかげである、信心である様な思い方からは生まれてこない。矢張り話を聞いて道理を聞いておかなければ、そういう時にお礼を申し上げねばならない時に、不平を言うたり不足を言うたりしなければならんわけであります、ね。いわゆる健全な心というのは、その様にです有り難いっすべてが有り難いという事になってくるのです。
 そういう心こそ私はいわゆる『体の丈夫を願え。体をつくれ。何事も体がもとなり』と仰せられる、そういう願いと体を作って行く事の為に精進しておる人達の上に頂けるおかげだと、こう思いますね。いわゆる不動の信念が確固たるものになってくるわけであります。昨日の、朝の御祈念の後でした。原さん方御一家でここでお取次ぎをなさる時に、ご長男の昌一郎さんが、「今朝方、先生、お夢を頂いた」と言う。
 どういう夢だったかというと、『あそこに、原洋服店という看板が掛かっておる。その看板を見てもう、やかましゅう言うて親先生がおし、おし、私をお叱りなっておる所でございました。』とこう言う。何年経ちゃぁ何時まっでんこげなん看板ば上げとるかというわけなんです。あんたげな信心するとに何年になるの。何時まっでん原洋服店の看板どん上げちから、ち言うごたる風な。
 で私がその時はどういう事だろうかと思うておった。たら今朝から特にこの御理解を頂くにあたってですね、思わして頂いた事なんですけれども、昨日はあちらの謝恩祭、宅祭に、の日でもありましたから、今年の宅祭を境にこの様な信心に看板を書き換えよと仰っておられるんだなぁと私は思うた、ね。例えば金光教合楽教会という風に看板があるようにです、金光教原洋服店にならなければいけないという事ですよ、ね。
 神様のお店、口では言うておるでしょ、ね。秋永先生とこなら、金光教うめや京染店でなかなければいけないのです。それを何年たっても何時まっでん、うめや呉服店であったり、原洋服店であったりしたんじゃいけないじゃないか、と言うてお叱りを頂いとったっち言うのはその事だった。ね、例えばなら高山さんが参って来とる時に、高山さんのなら農場がです、ね、高山農場じゃ駄目だ、ね。
 金光教高山農場でなからなきゃいけない、ね。私はそういうね、本当の思い込みというものが、愈々出来て来る神様のお店、神様の農場神様のお仕事、それを手伝わせて頂いておる私であると言う様な事がです、私は本当に思えれる、思い込めれれるという、そういう心そういう心が、私はお道で言う信心の、体が健全な健全な信心を身に付けていくならね、必ずそういう事にならせられるのです。
 自分のものとしては無一物の私なのですから、どれだけの財産があっても、みんなが神様の御物としての頂き方というものが、ね、例えば金光教原洋服店という看板を、もう掲げられるようにならなきゃいけんじゃないか。実際のうえにそういう看板を上げれって言うのじゃないですよね。原洋服店っていうのが神様のおかげで立っておる、神様の御店なのだと。そこの私は支配人であり番頭であり、小僧であるんだという、生き方にならして頂いたらです。しかしこれは素晴らしい事になるだろうと思いますね。
 健全ないわゆるお店が出来るわけですね。今日は今朝私ここのいつも、石庭の所に出まして天地を拝ましてもらいます。最近はその何ち言うんですかね、天地だけではない上下だけではない、その中間いわゆる天地金の神と仰るんですがね、いわゆるその宇宙間そこもね、何かこの頃、拝まなければおられない気がするんですよ。だから三回、三つここでもし御祈念をしておられる方がおられるなら、この頃ひとつ増えたという感じですね、拍手が。もう本当に拝まなければおられない、そんな感じがする。
 その後に私は必ず十回深呼吸をする。もうこのねこの宇宙間に漲っておる神様のお恵みと言うかね、いわゆるこの空気です、ね。それこそ空気の有難さなんです。この空気をこのような新鮮なありがたさをもって、毎日深呼吸をさして頂いておるなら、もう是は愈々五体は健全になるなぁと、私はもう日々それを感じます。本当に空気の有難さというものをです、ね。自分の体内にあるところのです。
 いわゆる汚いものがです、はぁと吐く息から出される。そして吸う息の中から神様のお恵みの空気がグッとこれに入ってくる。もう是を繰り返して行きよんなら、是は五体は健全になるぞと思うくらいです。そんな実感が致します。例えば私共がもう是は長年その思い、大小便に行く時でもそうです。もう大小便の中からはね、体内の悪血悪毒が共に排出しておると思いますから有り難い。
 また願いとしてもですどうぞ大小便の中から、悪血悪毒のお取り払いを頂きます様にという願いをさして頂きます。皆さんでもそうです大小便の時に、簡単な事でええ心からお礼を申し上げるおかげを頂かにゃいけません、ね。ようにです例えばこの深呼吸をさして頂く時にです、吐く息の中から体内の悪いものが出て行くならば、又それを吸わして頂く時に神様のお恵みである所の空気を吸わせて頂くという事がね。
 有難いなぁともう毎朝それを最近実感さして頂いて、深呼吸のおかげを頂いておるがです。今日はね私の深呼吸中にですね、大きなトラックが続いて何台か通った、ね。その時に私の心の中にフッと思うた事がですね、いわゆる排気ガスのことですね。最近は自動車が多いから、矢張り排気ガスによってこの空気が汚れる。こうやって深呼吸さして頂いて吸わして頂いておるけれども、やっぱり道の側だから、その排気ガスもいっしょに吸いよるだろうまぁ言葉で言えやそうですけど、思うたのはほんな瞬間でした。
 もう排気ガスのことをフッと思うたらね、思うた瞬間に御神眼に頂きますのが、網目を頂くんです網の目を、網目ていうね。もう私は本当に信心のきび、あの微妙さこのおかげの微妙さというものに本当に改めて今日はそれを感じました。有難い空気を吸わせて頂いておるというだけなら有り難いけども、フッとそこに不浄が入った。はぁ吸いよるばってん、こん中にはまた排気ガスもあると言った様なものがポッと入ったらね、所謂おかげの受け物がね、もう網の目の様に目が粗うなったという事なるんですよ。
 それこそこのね空気がありがたいなぁ、もうこの有難い空気を頂いておる限り、もう五体は健全になるなと、毎日毎日その思いが強うなって行く訳ですね。所が今日はフッとその排気ガスの事を思うたらですね、思うただけでですね、水も漏らさんほどしのおかげの受け物が網の目の様になった感じでありましたね、そこで私共はやっぱりそう言う様な場合に直面しますと、不安が起こったり色々致します不浄が起こります。
 そこでね矢張り詫びなければならない、はぁ私の心の中にこういう、例えばおかげの邪魔になるような心が動いておる、動いた時にはですね、矢張り神様にその事をお詫びさして頂けれるほどしの、いうなら目の詰まった信心をさして頂かにゃいけません。体の丈夫を願わして頂くでもです、もうこん位なもんは良か良かと言うて、毒になる物でも食べるような事をしたり、ね。
 所謂大酒大食は絶食のもとになるぞと教えておられるのにです。もう良かちっと位飲みすぎたっちゃかんまんち言うごたる、もう生き方で一時はそれで良かかも知れません、ね。それは3年5年では分からんかも知れませんけれども、そういう些細な不摂生がです、不摂生がいつの間にか体を害して行く様な事にもなりましょう様にです、私共の心の健全の上においてもそうです。思いを本当にちさいそこに置きます時にです。
 はぁ本当に心の中にね、折角の受け物が出来ておるのが、目が粗うなるような思い方をしたり、あり方になったりしておる事も随分ある。そこん所をです矢張り心からお詫びをさして頂いて、改めていかなければならないなと言った様な事も思わして頂きました、ね。『体をつくれ、何事も体がもとなり』という御神訓。是は、ね、体をつくる。体が確かにもとなのであります。けどもその体のまいっちょ向こうに。
 あるもとは心なのであります。その心が健全でなからなければ、健全の体を頂く事は出来ません。けどもそれもです、例えば体の丈夫を願えと仰るように、一心に願うという事とつくれと仰る、一生懸命に精進するという事の二つがね、伴うていかなければなりません。一生懸命、御祈念をしなければなりません。同時に一生懸命、御理解を頂かなければなりません、ね。それが行の上に現されていく、そこからね、いわゆる不動の信念ね、確固たる、いわゆる頑丈な心とでも申し、頑丈な体が約束されるわけですよね、
   どうぞ。